京都前衛陶芸の金字塔・走泥社半世紀の軌跡とオブジェ焼の巨匠たち
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第一章:走泥社の創設背景と激動の戦後陶芸史
1.1 1948年、京都。戦後解放と既成概念への反逆

1945年(昭和20年)8月の敗戦は、日本社会のあらゆる階層における価値基準を根底から覆した。政治、経済、思想、状態、そして芸術にいたるまで、それまで絶対的とされていた既成の権威や美徳は、一瞬にしてその説得力を失ったのである。この激動の時代にあって、千年の伝統を背負う古都・京都の陶芸界もまた、深刻な地殻変動の渦中にあった。戦時下の物資統制や奢侈品製造販売禁止令(七・七禁令)によって、精神的にも物理的にも生産活動を抑圧されていた若き陶工たちは、戦後の混乱と解放の中で、それまでにない強烈な表現への渇望を抱いていた。
しかし、当時の京都陶芸界を支配していたのは、官展(日展)を中心とする旧態依然とした審査制度であり、絶対的なヒエラルキーを誇る家元制度や、何代にもわたって受け継がれてきた伝統的な陶業の徒弟制度であった。そこでは、上御霊や五条坂の窯元に生まれた若者たちが、どれほど新鮮な芸術的衝動を抱こうとも、既存の型や様式をなぞることが最優先され、個人の自由な表現思想は厳しく制限されていた。新進気鋭の表現者が独自の個性を発表しようとすれば、公募展の審査員である大家たちの好みに迎合するか、あるいは旧来の様式美の枠内に収まる作品を作らざるを得ないという、極めて閉塞的な状況が横たわっていたのである。
このような伝統の重圧と制度化された権威に対する異議申し立ての機運は、1940年代後半に最高潮に達する。時代の転換期がもたらした自由な空気の中で、京都の若き才能たちは、もはや誰かの模倣ではない「自己の表現」を可能にする新しい磁場を求めて結集し始めた。旧弊な美術団体から脱退し、あるいはそれらを拒絶して、芸術としての純粋な自由を勝ち取ろうとする若者たちの連帯が生まれたのが、1948年(昭和23年)という年であった。
1.2 伝統的な「器」の概念に生じた亀裂

走泥社の結成へと至る思想的先鋭化の過程において、最も決定的な論点となったのは、陶芸における絶対的真理とされてきた「用(実用性)」という前提そのものに対する疑問の発生であった。それまでの陶磁器の歴史において、器は「何かを盛るための道具」であり、どれほど美しく装飾されようとも、その形態の中心には空間(空虚)があり、機能性を伴うことが宿命づけられていた。しかし、戦後モダニズム運動の波が美術界全体に押し寄せる中、彫刻や絵画といった純粋美術(ファインアート)と、実用を前提とする工芸(クラフト)との境界線を取り払おうとする試みが、若き陶工たちの間で急速に現実味を帯びていく。
彼らは気付いたのである。粘土という素材は、人類が火を発見して以来、最も自由に変形させ、自らの意志を定着させることができる無限の造形可能性を秘めた物質であるということに。それにもかかわらず、なぜ陶芸家は「口があり、胴があり、底がある」という器の形式に縛られ続けなければならないのか。粘土を「器の壁」として内と外を隔てる道具に終始させるのではなく、その物質自体が持つ重量感、可塑性、精度、そして焼成によって生じる変形や亀裂を、そのまま純粋な視覚芸術として表現できないかという初期の衝動が、伝統的な器の概念に決定的な亀裂を生じさせた。
この運動は、当時の海外における抽象表現主義や現代彫刻の動向とも共鳴していた。粘土を器という制約から完全に解放し、土と火という根源的なエレメントを用いて、自己の精神世界を三次元の立体として空間に立ち上げる試み。この思想的コペルニクス的転換こそが、後の「オブジェ焼」へと繋がる未踏の表現領域の幕開けであった。
1.3 走泥社が目指したものと創設意義(用の美からの完全な離脱)

1948年(昭和23年)、京都の若き陶芸家たちによって結成された「走泥社」の名称には、「泥に走り、泥に塗れながらも、独自の芸術的未開拓地を切り拓いていく」という、泥臭くも妥協のない前衛精神が込められていた。彼らが目指したのは、単なる既存の美術団体の否定や、表面的な様式の新奇さを競うことではなかった。それは、「陶磁器という素材を用いた、全く新しい独自の造形言語の確立」であった。
創設当時の彼らが発表したステートメントや初期の試行錯誤を検証すると、彼らは当初から実用性を完全に排斥していたわけではない。しかし、既存の「用の美」という美学が、結果として作家の自由な造形思考を縛る足枷になっていることを痛感するにつれ、組織としての思想的ベクトルは「用の完全な否定」、すなわち純粋な立体造形としての「オブジェ」の探求へと急速に純化されていった。
器としての機能を果たすための「中空の空間」を塞ぎ、物質としての土の塊を提示する。あるいは、本来なら液体を容れるべき容れ物に無数の穴を穿ち、用を不可能にする。こうした過激な実験の積み重ねは、日本の陶芸界において工芸の一分野と見なされていた陶芸を、現代美術(ファインアート)の文脈へと強制的に引き上げる歴史的転換点となった。走泥社が遺した最大の創設意義は、実用性を完全に捨て去った純粋な立体造形としての「オブジェ焼」という新ジャンルを確立し、それまでの工芸の概念そのものを根本から再定義した点にある。
第二章:創設者5人の思想と運命の分岐点
2.1 創設メンバー5人の出自と初期の共通項

《走泥社同人集合写真(1957~1959年頃)》
走泥社を立ち上げた最初の5人のメンバー、八木一夫、鈴木治、山田光、松井美介、叶哲夫。彼らのプロフィールを紐解く上で極めて重要なファクトは、全員が京都の伝統的な陶業環境(東山区の五条坂や今熊野、上御霊など)のただ中に生まれ育ち、幼少期から「土を捏ね、車を回し、窯を焼く」という高度な清水焼の伝統技術を身体感覚として染み込ませていたという点である。彼らは、陶芸を外部から学んだ新参者ではなく、京都の職人社会の圧倒的なディシプリン(規律)の中で育った生粋 of 陶工の末裔たちであった。
この「高度な伝統技術の所有」という共通項こそが、彼らの前衛運動に強固な説得力を与えることになる。彼らは、基本技術が未熟だから奇抜な形に逃げたのではない。むしろ、職人として完璧な器を作ることができる卓越した技量を持っていたからこそ、伝統の単なる模倣や再生産に終始することへの危機感が、人一倍激しく、切実なものとして迫っていたのである。完璧な技術という土台があるからこそ、それをあえて解体し、再構築するという破壊のクオリティが担保されていた。この5人の初期の精神的連帯は、高度な職人技への敬意と、それを超越せねばならぬという芸術家としての宿命的な葛藤によって結ばれていた。
2.2 「走泥社の三羽烏」八木一夫・鈴木治・山田光の探求
① 八木一夫:思想的リーダーの陶歴と変遷

ⅰ.陶歴と師事
:1918年(大正7年)京都市生まれ。父は独自の文人陶芸で高名であった初代八木一艸。京都市立美術工芸学校彫刻科で学び、彫刻的な空間把握の基礎を修得する。父一艸の徹底した職人思想と芸術観の双方を間近で見つめながら、若くして独自の現代美学を模索した。1979年没。
ⅱ.技法と作風
:初期は上絵付けや平滑な釉薬を用いた器の変形を試みていたが、次第に無釉の黒陶(こくとう)技法へと傾斜。粘土の塊から直接形態を削り出し、あるいは成形したパーツを緻密に接合する「泥象(でいしょう)」と呼ばれる独自の造形表現を確立。1954年(昭和29年)に発表された『ザムザ氏の散歩』は、器としての口を完全に排し、複数の脚のような突起と車輪状の形態を持つ、日本陶芸界最初期の純粋なオブジェ作品として神格化されている。
ⅲ.目線と想い
:八木が見つめていたのは、器の「壁」としての粘土ではなく、その物質そのものが空間をどのように切り取り、存在を主張するかという彫刻的・哲学的な風景であった。陶芸を、絵画や彫刻と対等、あるいはそれらを超える「現代の純粋芸術」へと引き上げようとする強烈な意志が、彼のすべての制作を貫いていた。
② 鈴木治:詩的造形と土の生命力

ⅰ.陶歴と師事
:1926年(大正15年)京都市生まれ。父は宇野仁松の工房等で卓越した腕を振るった清水焼の伝統的な絵付師・鈴木清。父の徹底した手仕事の美を見つめて育ち、京都市立美術工芸学校絵画科を卒業。絵画的な色彩感覚と、京都の高度な職人技術をバックボーンに持つ。2001年没。

ⅱ.技法と作風
:青磁や白磁、そして温かみのある赤土(あかつち)を用い、極めて洗練された有機的かつ詩的な立体造形を展開。八木とともに「泥象」の概念を提唱し、自然の現象(風、雲、太陽)や動物(馬、鳥など)の形態を極限まで抽象化した、無駄のないソリッドなフォルムが特徴である。
ⅲ.目線と想い
:鈴木が好んだのは、土を焼くという行為そのものが持つ根源的な生命力の横溢であった。彼の目線は常に、高度に計算された職人技を用いながらも、焼き物でしか表現し得ない「土の温もりと凛とした佇まいの融合」に向かっており、冷徹な前衛というよりは、物質との深い交感から生まれる詩的な風景を形にしていた。
③ 山田光:空間と面による理性的アプローチ
ⅰ.陶歴と師事
:1923年(大正12年)東京生まれ。京都に移住し、陶芸家であった父・山田詰(清水六兵衛の系譜に連なる環境)のもとで育つ。京都市立美術工芸学校図案科で学び、デザインや幾何学的構成の基礎を叩き込まれる。2001年没。

ⅱ.技法と作風
:黒陶やスリップウェアの技法を応用し、薄い板状の粘土(タタラ)を組み合わせた幾何学的な構成を得意とした。作品の表面にシャープなスリット(隙間)を入れることで、器の「内と外」の関係性を視覚的に反転させる表現や、スクリーンのように空間を透過させる独自の立体造形を展開した。
ⅲ.目線と想い
:山田の想いは、陶芸における「虚と実(空間と物質)」の構造を理性的に解体することにあった。彼の見ていた風景は、直感的・エモーショナルな造形ではなく、建築的かつグラフィックな記号論に近いものであり、計算し尽くされた面と線の構成によって陶磁器の概念的な新境地を拓こうとした。
2.3 歩む道を異にした二人:松井美介と叶哲夫の選択とその背景
① 松井美介:実用性と伝統技法への回帰と独自の風景
ⅰ.陶歴と作風
:1926年(大正15年)京都市生まれ。五条坂の伝統的な窯元の環境に育ち、若くして確かな成形・焼成技術を有していた。1948年の走泥社創設メンバーとして、戦後の閉塞感を打破するための前衛の黎明期を共にする。
ⅱ.離脱の背景と理由
:結成からまもなく、走泥社が八木らを中心として「器の完全な否定、用の完全な排斥」へと急進的に傾斜していく中で、松井は自身の職人としてのアイデンティティとの深刻な乖離に直面する。松井にとって陶芸とは、手で触れ、暮らしの中で使われる「用の美」の文脈にこそ、その本質的な美と技術の極致が存在するものであった。前衛という名の、実用性を捨て去った孤高の芸術オブジェへ進む集団のベクトルに違和感を抱いた彼は、1950年代初頭の極めて早い段階で自らの足跡を伝統的な清水焼の世界、すなわち「人々の生活に深く根ざした工芸のぬくもり」へと戻す選択をし、グループを離脱した。
② 叶哲夫(二代叶松谷):偉大なる師・叶光夫から受け継いだ血統と「用の美」の葛藤
ⅰ.陶歴と作風
:1927年(昭和2年)京都市生まれ。清水焼の名門である叶家の血統に育ち、父は初代叶松谷(本名・謙一)。そして彼にとって最大の転機であり、技術的・精神的支柱となったのが、実の叔父であり直接の師匠となった大巨匠・叶光夫(1903–1970)の存在であった。哲夫は戦後、父の工房を手伝う傍ら、叔父である叶光夫に徹底的に師事した。光夫は、近代日本の科学的陶芸の先駆者である小森忍に師事し、満州国官窯の選定や中国古陶磁研究において圧倒的な足跡を遺し、その作品がアメリカのボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)や京都国立近代美術館に永久所蔵されている、まさに釉薬の世界的権威であった。哲夫は、この偉大すぎる師から、清水焼の真髄、色絵、染付、そして超高難度の釉薬調合技術を直接その身に授けられた。そのため、1948年に21歳の若さで走泥社の結成に参画した段階で、すでに他の若手作家とは一線を画す、老練かつ極めて高度な「伝統的技術の裏付け」を有していたのである。
ⅱ.離脱の背景と理由
:走泥社が八木一夫らを中心として、実用性を完全に排除した純粋立体造形(オブジェ焼)の確立へと突き進む中、叶哲夫は耐え難いほどの深い精神的葛藤に直面することになる。それは、単なる表現上の意見の相違ではなかった。自らの父、飾るに値する高名な師・叶光夫が血のにじむような研究の果てに確立した「用の美」の極致、その伝承技術を、前衛という大義名分のために自らの代で完全に破壊し、捨て去ってよいのかという、血筋と歴史の重みに裏打ちされた宿命的な苦悩であった。

《叶光夫の代表作、玻璃釉々彩大鉢・花器、1942年〜1970年頃》
事実、叔父であり師である叶光夫の足跡を検証すると、戦前の1942年(昭和17年)7月の段階で、すでに独自の「玻璃釉(氷裂釉)」の緻密な調合研究(南郷長石75、無鉛白玉25の割合など)を完成させていた記録が残されている。戦後はその卓越した技術を見込まれ、高名な建築デザイナーであるアントニン・レイモンド氏の夫人の依頼により、最先端のモダンな洋食器類を数多く手掛けるなど、実用の枠内でのモダニズムの極致を体現していた。
哲夫にとって、この師の背中はあまりにも大きく、そして「器」という制約の中でこそ、釉薬と土の可能性は無限に引き出されるという確信に満ちていた。前衛という名の「用の破壊」ではなく、師から授かった伝統技法の「正統な近代的アップデート」を選択した彼は、走泥社の急進的なオブジェ化のプロセスに伴い、1951年頃という最初期の段階でグループを離脱。その後、家芸の正統を継承して「二代叶松谷」を襲名し、鉄分を含んだ杯土に白化粧を施し、素焼きの後に玻璃釉を施釉する独自の「玻璃釉墨焼」などの超高難度技法をさらに深化させ、伝統とモダンが最高峰の次元で融合した実用器の世界を確立した。
第三章:走泥社の進化と前衛精神を継承した異才たち
3.1 第二世代の参入がもたらした「オブジェ焼」の確立と進化
創設メンバーのうち松井、叶(哲夫)の二人が実用器の地平へと立ち返るために早期離脱したことは、一見すると走泥社の組織的弱体化を招くかのように思われた。しかし歴史は逆の結末を用意していた。1950年代後半から1960年代にかけて、走泥社は「器の否定」という初期の破壊衝動を終え、それを一個の強固な「現代美術の表現ジャンル」として社会に定着させるための第二ステージへと移行する。この重要な転換期に合流したのが、後に「第二世代」と呼ばれる次世代の気鋭の陶芸家たちであった。
彼らは、創設期の三羽烏(八木・鈴木・山田)が切り拓いた前衛の荒野を、より洗練された独自の造形美学によって耕し、深化させていった。特定の公募展の枠組みを飛び越え、彫刻や現代アートの文脈と対等に渡り合うための理論と技術。第二世代の参入によって、走泥社は創設メンバーの個人運動という枠を完全に超越した。それは、1998年(平成10年)の解散にいたるまで、半世紀もの長期にわたり日本の現代陶芸界の頂点に君臨し続ける「巨大な前衛梁山泊」へと進化・定着するための、極めて決定的な歴史的意味を持っていたのである。
3.2 佐藤敏:八木一夫が最も見込んだ同人作家

ⅰ.陶歴と技法
:1936年(昭和11年)合資会社や職人の街としての伝統を持つ地域に生まれ、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)工芸科陶磁器専修にて学ぶ。同校にて近代陶芸の良心である富本憲吉や、人間国宝の近藤悠三といった最高峰の巨匠たちから直接指導を受け、厳格な成形、精密な釉薬理論、作陶における高い精神的倫理観を叩き込まれた。1960年代に走泥社に同人として参加。2019年没。
ⅱ.作風と特徴
:佐藤敏の作風は、計算し尽くされたシャープな幾何学的構成と、土という物質が持つ質感、さらには釉薬が引き起こす化学変化を極限までコントロールした、極めて知的な仕上がりが特徴である。彼は単に土を奇抜な形にするのではなく、陶芸でしか表現できない硬質さと精神性を、現代アート(ミニマリズムやコンセプチュアルアート)の文脈へと完全に融合させた。
ⅲ.八木一夫との関係性
:走泥社の絶対的カリスマであった八木一夫は、佐藤敏の登場を一驚をもって迎えた。八木は、佐藤の持つ妥協のない造形美学と、名だたる大家たちから受け継いだ圧倒的な技術的クオリティを誰よりも高く評価。「次世代の走泥社を背負う、本物の天才はこいつだ」と周囲に明言し、同人作家の中で最も深く見込み、全幅の信頼を寄せていた。佐藤が見つめていた風景は、国内の工芸という狭い枠組みを完全に超越した、グローバルな美術潮流と対等に対峙するための、極めてシリアスな芸術表現の極致であった。
3.3 宮永理吉(3代宮永東山):名門の血統と前衛のパラドックス

ⅰ.陶歴と背景
:1935年(昭和10年)京都市生まれ。初代宮永東山より続く、日本陶芸界において最高峰の「青磁(せいじ)」の格式を誇る名門の家に生まれる。宮永東山家は、宮内庁御用達を務め、世界万国博覧会などでも数々の栄誉に輝いた、いわば伝統的清水焼の世界におけるロイヤルファミリーである。理吉は若くして、その完璧な家伝の伝統青磁技術と、最高級の素材を扱うディシプリンを完璧に継承した。2017年没。

ⅱ.伝統と前衛の激突
:名門の正統継承者として輝かしい未来を約束されていた彼が、あえて最も過激な前衛美術集団である「走泥社」に身を投じたという事実は、現代陶芸史における最大のパラドックス(矛盾)として今なお語り継がれている。これは単なる反逆ではない。誰よりも完璧に伝統を理解し、誰よりも美しい器を作ることができる者が、その特権をあえて脱ぎ捨てて「実用性を完全に排除した純粋立体造形」を志向するという、極めて贅沢で確信犯的なカウンター表現であった。
ⅲ.オブジェ焼の確立と当店保有作品の分析:
宮永理吉は、東山家伝来のこの上なく気品溢れる青磁の釉調や成形技術をそのまま使いながら、それを器ではなく「純粋な抽象彫刻(オブジェ焼)」へと流し込む独自の世界を確立した。彼の作品が持つ圧倒的なノーブルさ(高貴な佇まい)は、その血統の裏返しだったのである。

*宮永理吉 作 青磁オブジェ『達磨立像』
伝統的な仏教美術のモチーフである「達磨」を、走泥社で培われた前衛精神と、名門・宮永東山窯の血脈を受け継ぐ最高峰の技術によって再構築した、宮永理吉の晩年の到達点とも言える極めて貴重な立体造形作品である。 本作の最大の特筆すべき点は、極限まで写実的に彫り込まれた「焼き締め」の肉体と、大胆に抽象化された「青磁」の衣という、相反する二つの表現がひとつの造形の中で完璧に融合している点にあります。眼光鋭い達磨の表情や、胸元の毛並みから骨格に至るまでの生々しい質感は、釉薬を掛けない土そのもののエネルギーをダイレクトに伝える緻密な造形美を見せています。その一方で、頭部から足元まですっぽりと覆う衣は、流れるような曲面とシャープなエッジで構成され、吸い込まれるように美しい青磁釉によって極めてモダンに抽象化されています。 走泥社のオブジェ陶芸を牽引した宮永があえて具象的なモチーフに挑み、「超絶技巧の写実」と「極限の抽象」、「無釉の荒々しい土肌」と「滑らかなガラス質(青磁)」という強烈なコントラストを突きつけることで、達磨の深い宗教的精神性と、現代彫刻としての理知的な美しさを奇跡的な次元で両立させた、国内外を探しても類を見ないマスターピース(傑作)である。
*宮永理吉 作 青磁オブジェ『寅』
十二支(干支)という日本古来の伝統的な吉祥モチーフを扱いながらも、その表現は完全に走泥社の前衛精神と、宮永理吉ならではの洗練されたモダンな造形哲学によって貫かれています。 本作は、虎という野性味あふれる動物の形態から、有機的な曲線や無駄な装飾を一切削ぎ落とし、建築的とも言えるシャープな「面」の構成によって純粋な形態美(ボリューム)へと切り詰めています。全身を覆う均整のとれた美しい青磁の釉調は、計算し尽くされたエッジと平面に光が当たることで豊かな陰影(グラデーション)を生み出し、硬質なクリスタルのような彫刻的魅力を放ちます。また、極度に抽象化・幾何学化されたフォルムでありながら、口元に鉄絵(黒い顔料)でリズミカルに描かれた髭が、前衛的なオブジェの中に絶妙な愛嬌と生命力を添えています。 伝統的な「用の文脈」や「縁起物」という枠組みを鮮やかに飛び越え、見る者に素材(青磁)と形態の純粋な美しさを提示する本作は、和洋を問わず現代の洗練された空間に完璧に調和する、極めて芸術性の高い名作である。
第四章:巨匠たちが遺した実用酒器の系譜学と工芸における突然変異の美学
4.1 オブジェ焼の巨匠たちが「あえて」作った実用食器・酒器という逆説

「実用性を捨てること」を自らのアイデンティティとし、器という概念を徹底的に解体・破壊することで日本の現代美術史を塗り替えた走泥社の作家たち。彼らの公式な評価や美術館の収蔵実績のほとんどは、その急進的なオブジェ作品によって占められている。しかし、この前衛の巨匠たちが、その長い生涯の中でごく稀に、あるいは親しい知人のための特別な誂え品として、また自らの高度な技術をあえて逆方向に試すかのように「実用性の高い食器や酒器」を制作していたという驚くべき事実が存在する。
器を否定し、用の美からの完全な離脱を叫んだ男たちが作るからこそ、そこから生まれる実用器には、一般的な職人が作る器とは明らかに一線を画す、圧倒的な「造形の緊張感」と「前衛の残り香」が宿る。彼らは用のために形を作ったのではない。オブジェとしての強烈な立体思考を、あえて器という極小のフレーム(枠組み)の中に「閉じ込めた」のである。この逆説的なプロセスによって生まれた器は、単に使いやすい道具であることを超え、手のひらの上で鑑賞されるべき純粋な立体アートとしての機能を同時に果たすことになる。
4.2 陶芸界における突然変異や奇行種、あるいはエラーコインとしての希少性と特殊性の検証

美術史において「オブジェの作家」として完全にカテゴライズされている巨匠が、その本流の脈絡から外れて遺した実用器の存在は、陶芸界における「突然変異」、あるいは美しき「奇行種」とでも呼ぶべき特殊な現象である。それは、貨幣収集の世界における「エラーコイン」の持つ希少性のロジックと見事に合致する。本来の規定や絶対的なコンセプト(=用を持たない立体造形)の裏返しだからこそ発生した、歴史の幸福な手違い。
走泥社=オブジェという強固なパブリックイメージがあるからこそ、彼らが手がけた実用酒器は、市場において極めて発見が困難であり、一般の「器作家」が作った数万点の器とは、その存在の希少性の次元が根本から異なる。それは美術史の隙間に奇跡的に生み出された突然変異であり、その特殊性を理解するコレクターにとっては、何ものにも代えがたい至高のレアアイテムとなるのである。
4.3 その他、当店取扱作品と作家のご紹介

*当店では、これら日本の戦後前衛美術史を揺るがした巨匠たちが、自らの絶対的思想の裏側で極めて限定的に遺した、突然変異的かつエラーコイン的な実用酒器作品を独自に発掘し、一堂に取り揃えております。以下に、その一部をご紹介いたします。
柳原睦夫:色彩とユーモアで前衛を拡張した異才

ⅰ.走泥社への参加
:1958年(昭和33年)に参加。

ⅱ.技法と作風の特徴
:それまでの走泥社に多かったストイックで土臭い質感とは対照的に、鮮やかなイエローやグリーン、そして艶やかな金彩・銀彩を大胆に駆使した、極めて華やかで官能的な抽象オブジェを展開した。
ⅲ.見ていた風景
:1960年代にアメリカ(ワシントン大学など)で客員教授を務めた経験から、現地のポップアートや現代美術の洗練されたユーモアをダイレクトに吸収。日本の伝統的な「織部」などが持つ歪みの美学を、現代的なパロディや前衛ポップ・センスへと昇華させ、走泥社に「明るい前衛」という強烈な新風を吹き込んでいた。
森野泰明:名門の系譜と国際的幾何学の融合

ⅰ.走泥社への参加
:1957年(昭和32年)に参加。

ⅱ.技法と作風の特徴
:京都市立美術大学で富本憲吉らに師事。京都の高名な陶芸家・森野嘉光を父に持つ名門の出身でありながら、早くから前衛の道を選びました。シャープで建築的な幾何学的造形に、目も覚めるようなトルコ青(ターコイズブルー)や深い赤といった、極めて美しく計算された釉薬表現を施したオブジェが特徴である。
ⅲ.見ていた風景
:彼もまた1960年代に渡米(シカゴなど)し、海外の現代アートシーンと深く共鳴しました。京都の伝統的な工芸技術を完璧なベースにしつつも、空間における物体の構造的な美しさや抽象性を緻密に計算する、極めて知的なアプローチでグループの黄金期を支えた。
4.4 コレクターに提示する、現代アートとしてのジャパン・コウゲイの愉しみ
当店が提案するのは、これら日本の前衛美術史を塗り替えた巨匠たちの「突然変異的酒器」を用い、時を経てじっくりと熟成された「古酒や熟成酒」を味わうという、極めて文化層の深い至高の体験である。長い年月をかけて深みと芳醇な香りを増した古酒は、その複雑な味わいを受け止めるに足る「歴史の重みとテンションを持った器」を必要とする。
用の美を否定した男たちが、その生涯の片隅で、奇跡的に用の枠内にその牙を閉じ込めたエラーコインのような酒器。その器に美酒を注ぎ、光の角度によって表情を変える玻璃釉の貫入や、凛とした青磁の金彩を見つめながら喉を潤す時間は、世界中で当店のお客様だけに許された、最も贅沢でインテリジェンスなコレクションの悦びである。日本の戦後モダニズムが最も熱かった時代の精神を、日々の美しい五感の体験として、ぜひその手のひらの上でご堪能あれ。