師からの手紙 ― 栞に残された推薦文で読む、陶芸家たちの師弟と友情
共有
共箱の紐をほどき、蓋を開けると、器と一緒に一枚の紙が出てくることがあります。作家の経歴を刷った「栞(しおり)」です。個展や頒布のときに作品に添えられたもので、多くは器が人の手を渡るうちに失われ、残っていても読まれないまま箱の底で眠っています。
けれども古美術を商う者にとって、この薄い紙は器と同じくらい大切な史料です。年譜の最後の一行から制作の時期が絞り込め、肩書きの書き方から刷られた年代がわかります。そして、ときどき、そこには作家本人ではない誰かの言葉が載っています。弟子を世に送り出す師の推薦文、旧友が寄せた一文、評論家の紹介。個展に足を運ぶ人に向けて書かれた、いわば「師からの手紙」です。
この記事では、当店の商品に付属する栞や、商品説明に記録してきた資料のなかから、陶芸家たちに寄せられた他者の言葉を集めました。誰が、誰のことを、どんな言葉で紹介したのか。紹介された作家がどんな人で、その言葉のあとにどんな仕事を残したのか。手紙と器を並べて読むと、作品の写真だけでは見えてこない、人と人とのつながりが浮かび上がってきます。ご紹介する商品はすべて当店で取り扱っているもので、写真も当店で撮影したものです。

この記事に登場する作家たちの関係図
記事に登場する主な作家たちの師弟関係、指導、交友を一枚にまとめました。線は上から下へ、教えた人から学んだ人へとつながっています。名前を押すと、その作家の作品や記事の該当箇所に移動します。
益子・濱田庄司の門下
木村一郎をめぐる人々
濱田庄司から島岡達三へ ―「糸は紬で、柄は絣」
最初の手紙は、民藝運動を率いた陶芸家・濱田庄司氏(1894–1978)が、弟子の島岡達三氏(1919–2007)について書いたものです。島岡氏は東京の下町で組紐師の長男として生まれ、東京工業大学窯業科で学んだのち、1946年に濱田氏の門を叩きました。益子で20年以上にわたって研鑽を積み、のちに「縄文象嵌」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。
濱田氏は、この弟子の人柄から書き起こしています。
島岡君は東京の下町育ちの人特有の内心には強い自信を持っていながら仕事の発表には意識して控え目のところがあり、(中略)技術的には大抵のものが出来る腕をもちながら自分の好みの焦点をよく絞って仕事を抑えています。
― 濱田庄司
師が弟子を紹介するとき、ふつうは技術の高さや受賞歴を並べたくなるものです。ところが濱田氏が褒めているのは、「何でもできるのに、やらない」ことでした。腕があるからこそ、自分の好みの焦点を絞り、仕事を抑える。民藝の器は、作り手の自己主張よりも、使う人の暮らしに寄り添うことを大切にしてきました。その目から見て、島岡氏の控えめさは弱さではなく、最も信頼できる資質だったのでしょう。
手紙はさらに、島岡氏の代名詞となる縄文象嵌に触れます。縄文土器の手法に学び、組紐を転がして器面に縄目を刻み、そこに白土を埋める技法です。その組紐が、組紐師として名人だった父上の遺品であることを、濱田氏はさりげなく書き添えています。そして最後に、こう結びます。
模様を紐に委せて自分の作風を立てている巧さなどいかにも島岡君と言えましょう。大体渋い仕事で着物にすれば糸は紬(つむぎ)で柄は絣(かすり)とでもいうところかと思います。
― 濱田庄司
紬は丈夫で、着るほどに体になじむ普段着の織物です。絣は、糸をあらかじめ染め分けて織ることで、模様の輪郭がかすかににじむ柄。派手さはないけれど、毎日使って飽きることがない。陶芸を着物にたとえたこの一文ほど、島岡作品の肌合いを言い当てた言葉はないように思います。実際に島岡氏の湯呑を手に取ると、縄目の凹凸に埋められた白土が霞のようにやわらかく、まさに絣の柄のように見えてきます。
なお、手紙のなかには「東京工大の窯業科を出て二十余年」という一節があります。こうした何気ない数字も、推薦文が書かれた時期や、その頃の作品の位置づけを考える手がかりになります。当店の #253 は、濱田氏に入門した1946年から数えて15年目、1961年の作で、共箱の蓋裏に作家自身の筆で「作陶十五周年記念」と記されています。島岡氏が益子に自身の登り窯を築いた年でもあり、師の手紙が描いた「控え目で、しかし内に強い自信を持つ」作家が、まさに独り立ちしようとしていた時期の一客です。


濱田庄司から佐久間藤太郎へ ―「呼び水は要らない」
濱田庄司氏の手紙は、もう一通、当店に届いています。宛先は益子の窯元に生まれた佐久間藤太郎氏(1900–1976)です。1924年に濱田氏が益子へ移り住んで以来、佐久間氏は濱田氏に師事し、民藝の器としての益子焼の隆盛を支えました。益子陶芸美術館は、佐久間氏を濱田氏との出会いを経て益子で初めて陶芸家を目指した人物として紹介しています。1934年、濱田氏は民藝運動の雑誌『工藝』で、益子の若い作り手のなかで佐久間氏が最も古くからの存在であると記し、その「益子の土を生かす仕事ぶり」に土地柄らしい素直さがあると評しました。
佐久間藤太郎窯の組湯呑(#434)に添えられた栞「陶の里 益子」には、その濱田氏の言葉が刷られています。
二三年来の佐久間藤太郎君の焼物を見ていると羨しい程仕事が自由で愉しそうだ、(中略)佐久間君は確かに自分の足元から地下水を掘り当てた呼び水は要らない。
― 濱田庄司
井戸を掘るとき、水を引き出すために最初に注ぐ水を「呼び水」といいます。外から借りてきた手法で作風を飾るのではなく、自分の足元、つまり益子の土と暮らしのなかから湧き出るものを掴んでいる。だから、たとえ思い切った試みをしても無理がない。師が弟子に贈る言葉として、これ以上の褒め言葉はないでしょう。
そして手紙の終わりで、濱田氏は驚くほど率直なことを書いています。
私はこの日頃、佐久間君から数々のことを学ばせて貰って感激しているし三十余年かゝってこういう陶工を得たことを益子のために仕合せに思う。
― 濱田庄司
すでに民藝運動の中心にいた濱田氏が、弟子から学んでいると書く。しかも「益子のために」と。師弟というより、同じ土地で同じ土を焼いてきた仲間への敬意が伝わってきます。同じ文章のなかで濱田氏は、佐久間氏の近業を「庭木から山の木になったようなのびやかさ」とも表現しています。手入れされた庭の木ではなく、山に自生する木の伸びやかさ。これもまた、民藝の美意識をそのまま言葉にしたような一文です。
古美術商として面白いのは、この栞が年代の手がかりにもなることです。栞の冒頭には「浜田庄司氏が益子に来られてから(中略)いつのまにか六十余年になります」とあります。濱田氏が益子に移った1924年から六十余年。この一文から、#434 の組湯呑は1980年代半ばから後半に、初代の薫陶を受けた佐久間窯の後継者や職人たちによって作られたものと推定できました。師の言葉を刷り続けた窯の栞が、のちの世代の仕事の年代まで教えてくれるのです。


濱田氏の門下からは、ほかにも多くの作り手が育ちました。明石庄作氏(1946–)は1962年に濱田庄司氏と長男の濱田晋作氏に入門し、濱田窯で20年にわたって修業したのち、1981年に益子で独立しました。当店の #460 に付属する栞の年譜は1998年の栃木県文化奨励賞で終わっており、そこから制作時期を1990年代後半と推定しています。師の推薦文こそ残っていませんが、栞の一行一行が、濱田窯で鍛えられた作り手の歩みを伝えています。

島岡達三から松崎健へ ―「どんな花が開くか楽しみにして居ります」
濱田氏から「控え目」と評された島岡達三氏も、やがて弟子をとり、推薦文を書く側になりました。その相手が松崎健氏(1950–)です。松崎氏は東京都町田市に生まれ、玉川大学で陶芸を専攻したのち、島岡氏のもとで5年間、住み込みで修業しました。1977年に益子の北郷谷に窯を築いて独立しました。当店の #269 に付属する栞には、その独立に際して書かれた師の言葉が載っています。
松崎君は東京玉川大学の芸術学科で陶芸を専攻し、卒業後私の処で五年間勉強しました。(中略)恵まれた素質に加えて無類の仕事好きです。
― 島岡達三
島岡氏が評価したのは、松崎氏が仕事の方向を暮らしと結びついた食器に向けていることでした。「一見地味ではありますが工芸としての陶器を作る場合一番正しい姿勢であり陶器の真の美しさはその中から生まれてくるものと思います」。かつて師の濱田氏が自分に向けた評価、つまり派手さより正しさを尊ぶまなざしが、ここではそのまま次の世代へと受け渡されています。手紙は、こう結ばれます。
既に十年余の修業を積み充分の腕を持つ松崎君が今独立して自分の窯と仕事場を持ち自由に思いを発揮できるようになりました。どんな花が開くか楽しみにして居ります。
― 島岡達三
同じ栞には、もう一通の手紙が並んでいます。日本芸術院会員の洋画家・牛島憲之氏の一文です。松崎氏の父で日本画家の松崎脩己氏は、牛島氏が中学時代によく一緒にスケッチに出かけた親友でした。
私たちの仕事は日常の生活環境から生まれるのであるが、絵だけでなく、陶芸にもそれが大切なことだと思う。
― 牛島憲之
師からの手紙と、父の親友からの手紙。一人の若い陶芸家の門出に、陶芸の師と画家という二人の大人が言葉を寄せ、そのどちらもが「日々の暮らし」を大切にせよと書いている。偶然とは思えない重なりです。
そして、師が楽しみにしていた花は、確かに開きました。松崎氏は独立からわずか3年後の1980年に国画会野島賞を受け、1986年には国画会会員となります。作品はメトロポリタン美術館、ボストン美術館、ヴィクトリア&アルバート博物館などにも収蔵されました。濱田庄司、島岡達三、松崎健。三代にわたる師弟の言葉を一つの記事に並べられるのは、栞が残っていたからこそです。



木村一郎と松原直之 ― 手紙の残らない師弟を、栞と箱書きでたどる
すべての師弟に手紙が残っているわけではありません。益子の木村一郎氏(1915–1978)と、その門下の松原直之氏(1938–2024)の間に交わされた推薦文は、当店の手元にはありません。それでも、栞や箱書き、そして商品説明のために調べた資料をつなぎ合わせると、二人の関係は思いのほか豊かに見えてきます。
木村一郎氏は益子の生まれです。河井寛次郎氏の陶芸に心を動かされ、京都の商工省陶磁器試験所で学びました。同期には、のちに走泥社を結成して戦後の前衛陶芸を牽引する八木一夫氏がいました。さらに濱田庄司氏の紹介で、河井寛次郎氏から「練上げ」の技法も学んでいます。益子へ戻った木村氏は、辰砂釉や練上げなど、それまでの益子になかった技法を持ち込みました。濱田氏はその辰砂と練上げには否定的だったらしく、自身は益子で用いなかったといいます。2014年に益子陶芸美術館が開いた展覧会の題は「益子のモダニスト 木村一郎」。濱田氏の手紙に描かれた益子の作り手たちとは、少し違う場所に立っていた人でした。
当店の木村一郎氏の辰砂湯呑(#515)には、「木村一郎先生経歴」と題した印刷の栞が付属しています。1964年の国際陶芸展への招待出品を「今秋開催」と記していることから、同じ年に刷られたものと考えられます。そして、その末尾には、昭和53年8月21日の木村氏の死去が、後から手書きで書き加えられていました。この日付は、東京文化財研究所が収録する『日本美術年鑑』の没年月日と一致します。
誰が書き加えたのかはわかりません。けれども、作家の訃報に接した持ち主が、手元の栞にそっと一行を書き足した。その一行は、師から弟子への推薦文とはまた違う、器を大切にしてきた人から作家への手紙のように思えます。


もう一つの湯呑(#516)では、共箱の底に「昭52.3.7. 贈 上野 登」とペンで書き込まれています。昭和52年(1977年)3月7日、木村氏が亡くなる前年に、この湯呑が贈り物として人から人へ渡ったことを伝える記録です。栞や箱に残る書き込みは、器がたどってきた道のりそのものです。


では、弟子の松原直之氏はどうでしょう。松原氏は木村一郎氏と八木一夫氏の双方に師事しました。先ほど触れたとおり、木村氏と八木氏は京都の陶磁器試験所の同期生です。つまり松原氏は、かつて同じ教室で学んだ二人のもとで、益子の土味と京都のモダンな感覚の両方を受け継いだことになります。1961年に矢竹窯を開き、1967年に栃木県芸術祭賞、1990年に国際陶芸展奨励賞を受け、代表作は益子陶芸美術館に収められました。
木村氏の練上げの技は、のちに人間国宝となる笠間の松井康成氏へも伝えられたといいます。手紙は残っていなくても、技と人の流れは確かに続いていました。当店の商品ページでは、こうした師弟や家族の関係を「作家の系譜と関連情報」としてまとめていますので、あわせてご覧ください。

友からの手紙 ― 作り手ではない人が書いた推薦文
推薦文を書くのは、師だけではありません。備前の陶芸家・石野泰造氏(1942–)の栞には、芥川賞作家の三浦哲郎氏(1931–2010)による「石野君のこと」という一文が載っています。
石野氏の経歴は少し変わっています。早稲田大学文学部を卒業後、河出書房新社で文学書や雑誌「文芸」の編集に携わり、1975年に陶芸を志して退社しました。愛知県の窯業訓練校を経て岡山県和気町に登り窯を築き、1979年には日本伝統工芸展に初入選しています。三浦氏は、編集者だった頃の石野氏をよく知る友人でした。
物を創る人たちと、じっくり付き合い、その育て上げてきた仕事を理解し、励ましてきた人なのです。物を創る人の心というものを深く知っている人なのです。その彼が、今度は自分で物を創る側の人間になりました。
― 三浦哲郎
作家を支える側にいた人が、作る側に回る。かつて励まされた作家が、今度は励ます側として筆をとる。立場が入れ替わったこの一文には、師弟の推薦文とは違う温かさがあります。そして結びの言葉は、器を手にする私たちに向けられています。
どうぞ石野君の作品を手のひらにのせて眺めてやってください。もしよかったら、長く手許に置いて可愛がってやってください。
― 三浦哲郎
同じ栞の冒頭には、石野氏自身のあいさつも載っています。土そのものの味わいを持つ備前焼にひかれて作陶生活に入ったこと、焼成に心がけた作品にしたいこと。そして最後に「ご批判をお聞かせください」。友の推薦と、本人の控えめな一言。二つを並べて読むと、栞が一枚の小さな往復書簡のようにも見えてきます。


友人の一言が、作家の人生そのものを動かした例もあります。九谷の塩原文二氏(1907–1978)は、洋画と陶芸の双方で活躍した作家です。#293 に付属する栞で、塩原氏は自ら陶芸の道に入ったきっかけを綴っています。友人だった徳田八十吉氏のアトリエで上絵を描いて楽しんでいたある日、「君の作品の日展に出品してみようか」と声をかけられた。不思議に乗り気になって蝶文図の壺を作り、1950年の日展に初入選したのだそうです。
本人が書いた栞でありながら、そこに記録されているのは友からの一言です。推薦文という形をとらなくても、誰かの言葉が一人の作家を生むことがある。栞はそのことを、静かに伝えてくれます。


評論家と識者の言葉
栞に言葉を寄せたのは、評論家や地域の文化人であることもあります。京焼の名門・東山窯の三代宮永東山氏(宮永理吉氏、1935–)は、京都市立美術大学の彫刻科で辻晉堂氏らに学び、のちに前衛陶芸家集団「走泥社」の同人となった作家です。当店の #409 に付属する1966年の個展の栞には、美術評論家・吉田耕三氏の寄稿が載っています。
今回の個展は、彼がその斬新な彫刻感覚を駆使して日常品の制作を試みようとするもの
― 吉田耕三
彫刻家として出発した作家が、日常の器に挑む。評論家はその試みを「斬新な彫刻感覚」という言葉で紹介しました。この栞があることで、#409 の鉢が、その1966年の個展で彫刻と実用の融合を試みた初期の作品であることがはっきりしました。推薦文は、作家の評価を伝えるだけでなく、作品の素性を証明する書類にもなるのです。

九谷の北出不二雄氏(1919–2014)の飾皿(#459)には、石川県美術文化協会長の嵯峨保二氏が執筆した専用の解説栞が添えられています。北出氏の窯は、人間国宝の富本憲吉氏が九谷上絵付の研究のために滞在し、「青泉窯」と名付けた窯です。地元の文化を担う人が作家を紹介する文章を書き、それが作品とともに旅をする。栞は、作家と地域との結びつきを伝える記録でもあります。

古美術商が栞を手放さない理由
ここまで読んでいただくと、当店が栞を大切にする理由がおわかりいただけるかと思います。最後に、古美術を扱う立場から、栞の読みどころを三つにまとめておきます。
一、年代の手がかりになる
栞の年譜は、刷られた時点で止まっています。最後の一行が何年の出来事か、肩書きがどこまで書かれているか、「今秋開催」のような言い回しがないか。#434 の「六十余年」、#515 の「今秋開催」、#460 の年譜の最終行は、いずれも制作年代を推定する決め手になりました。共箱の「作陶十五周年記念」(#253)のような箱書きと合わせれば、時期はさらに絞り込めます。
二、人と人とのつながりを証言する
誰が推薦文を書いたかは、そのまま作家の人間関係を物語ります。濱田庄司から島岡達三へ、島岡達三から松崎健へと続く三代の言葉は、益子の陶芸がどのように受け継がれてきたかを、当事者自身の声で伝えてくれます。当店の「陶印・落款・サイン図鑑」や商品ページの系譜の欄も、こうした資料をもとに作っています。
三、器の見方を教えてくれる
「糸は紬で、柄は絣」。この一文を読んでから島岡達三氏の湯呑を見ると、縄目の白土が本当に絣の柄に見えてきます。作り手をいちばん近くで見ていた人の言葉は、器の見方そのものを教えてくれます。写真や寸法だけでは伝わらないものを、栞は伝えてくれるのです。
器をお求めになったら、どうか栞も共箱も包布も、器の一部として一緒に残してください。何十年か後にその器を手にする誰かにとって、それはきっと、今日の私たちが読んだのと同じ「手紙」になります。
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